『シン・ゴジラ(2016)』

最近では映画館で映画を見る機会がぐっと減っていたが(Amazonのせいで)、"庵野秀明が『シン・ゴジラ』を撮りました"ならば話は違う。当初は「もうシン~はやめてくれ!」や「ゴジラで伏線が120分もあるのか」等の思考が溢れてブチ切れそうになったが、総合して「ゴジラだから見に行く」という結論になったので初日に観てきた。

 公開前プロモーションは多岐に渡っていたと思うが、内容をひた隠しにするかにゴジラの横顔のみに固執するので、正直コラボしたところでよく分からん。予告編でも見せ場がイマイチ不明なため、大作映画の割にテレビでもあまりゴジラを推せていなかった様な気がする。

あとはゴジラが謎すぎるのと比例して、空気の読めないエヴァンゲリオンコラボがいっぱいあるので「お前らそんな事してる場合じゃないだろ」と思ったが、たぶん一番つらいのは庵野だ。

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前置きはさておき、これだけ秘密を貯めこんで見えるものは悪魔・モンスター的なゴジラのフォルムのみ。これは相当に尖った作品が出てくるだろう!と期待していたらまるい映画だったので驚いた。悪い意味ではなく巧く収めているという意味なので、観終わった時に「シン」の呪いが杞憂だったと共に、会社の為に体を売り続けているエヴァンゲリオンの不幸を想起した。

 

あらすじが「ゴジラが日本に出てきたので日本人が何とかするぞ!」と簡潔なものだったので、科学っぽい小難しい言葉が矢継ぎ早に飛び交っても問題ない。ゴジラが街を破壊してるかどうかを見れば分かるので、オタクが早口で喋っていると思って大丈夫だ。

今回話の中心となるのは矢口蘭堂という若き役人(役職:内閣官房副長官)であり、とにかく彼が頑張りまくるので、行動型の一個人が各分野のスペシャリストたちをまとめ上げ、勝利を勝ち取る姿はさながらアメリカ映画のようで爽快感がある。

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(失礼ながら長谷川博己氏のキャラの薄さが非常に主人公に向いていた)

 ギャレス・エドワーズ版『ゴジラ(2014)』の主人公が典型的な巻き込まれ型主人公であったのと比較すると、蘭堂は自分で話を前に進めているので「次に何をする?!どうすればいい?!」と、観客に感情移入させて、映画に参加させる効果があった。一方のギャレス版は、主人公が巻き込まれていくのを文字通り観ているだけで、どうしても眠たくなる部分がある。

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(めっちゃ筋肉あるのに"受け"だったアーロン・テイラー=ジョンソンくん

 

繰り返すがこの映画は「観客が矢口蘭堂に感情移入して日本を守る」事に主眼が置かれているのであって 東日本大震災以後の~やらに必死になる必要は特に無い。じゃあそれらしい事を映画で描くなよ!と思う人もいるだろうが、震災後、再度核の恐怖に曝された日本を題材にして"ゴジラ"である。それを無視した構成にするのはアメリカ映画だけで十分だ、ここはゴジラの国だぞ。

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このデリケートな話題を映画でまるく収めたことは間違いなく評価に値する。確かに、ゴジラ上陸による津波は繰り返し見せられたニュース映像を想起させるし、一波が去った後の何事もなかったかのような気味悪い平凡も思い出されて身につまされる思いがあったに違いない。

けれどこの映画は誰が悪いとも言っていない

看板持った連中は"政府"にイチャモン付けるのが好きだろうけど、本作の主人公は政府の人間だ。物語の大半が彼を取り巻く環境を映し出しているので、役人の伝言ゲーム→総理大臣が決定に困る、を見せられて喜ぶ人もいそうだが、彼らなりの闘い見せたのが『シン・ゴジラ』の優れた点だと思っている。大杉漣の演じる総理大臣をとっても、序盤は意思薄弱な指導者として登場するものの、物語が進むにつれてゴジラと対峙することを選んでいく(そのあたりは『ジョーズ』っぽさもあった)。そして主人公の思いは一人一人の思いを継いでいくかのように、物語が進むに連れて熱さを増していくのだ。

 

この映画観ていて「主語の大きい人」というネットスラングが頭を過ぎった。要は特定のものに対する自分の思い込みを、拡大解釈する人の事である(例えば役人の対応が遅れたら今後は役人全てを悪として見る等)。本作について尖ったメッセージ性が感じられなく、私は「まるい」という表現を使用したのだが、一つだけ一貫したメッセージがあった。

自身の持たされた場所で、必死・決死の思いで最善を尽くす人がいる!誰が良いか悪いかはもはやどうでも良い、前に向かって進もうじゃないか!という事で、意地悪な言い方をすると主語をデカくするなというヤツである。デリケートな問題を、きちんと落とし込みつつ、カルト的なフォルムをしたゴジラを好き放題暴れさせ、好き放題撮っていたのにはやられた!と思わされた人も多いはずだ。

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(本当にすごい見た目なので初見はゾンビになったかと思った)

 

基本的にまるい映画なんだけど欠点もある。

チョイ役のキャストが内輪ネタみたいな感じで急激に冷めるのと、出てくるキャラクターがわざとらしい程にアニメチックすぎて『チキチキ!笑ってはいけないゴジラ24時!』かと思った。特に、石原さとみ演じるアメリカ大統領特使は観ていて顔を覆いたくなるくらい恥ずかしいので必見だ。俺一人が恥ずかしい思いしたなんて許せねえ全員『シン・ゴジラ』観ろ。 

 

真面目な話、キャラクター付けで余計な事をしなければ「これが日本の『ゴジラ』だ」と胸を張れる作品だったと思うので非常に残念である。妥当なところにきちんと落とし込んだまるさを含めて、少ししたら忘れてしまうタイトルになりそうで怖い。

初代の『ゴジラ』が尖ったカルトムービーとなったのはゴジラと核の取り合わせだけではない。最終的にゴジラを葬れるのは、元気ハツラツとした長身の青年ではなく、社会に後ろめたさを思う一人の科学者である点だ。この如何にも怪獣好きの暗いヤツが感情移入しやすい―芹沢という科学者が、無敵の怪獣ゴジラを自分の命と引き換えに倒すという根暗のロマンが詰まっていた。

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(本多猪四郎監督の作品には芹沢的な男が多い)

 

他作品からの引用・オマージュを挙げだすとキリがないが、マーチ曲含めて本多猪四郎の『宇宙大戦争』との共通点が面白かった。『宇宙大戦争』のあらすじを簡単にまとめると、宇宙からの侵略者―ナタール人を倒すため、日本人をリーダーに地球人類が一致団結して闘いぬくというストーリーである。現実であれば国連が指揮を執り、日本は従うであろう所を、逆転させている虚構にナショナリズム的な楽しさがあるのだ。本作『シン・ゴジラ』でも同様の現象が起こるため、そこが日本人の観客として"ノれる"ポイントであり、作品への感情移入度を上げてくれたと思う。

一方でナショナリズムという言葉に過剰反応する人たちにとっては気に食わない点かもしれない。まったくアメリカ人は気楽にハリウッド映画を見れてさぞ楽しいだろうなあと思った。

 決して大作でなくても、作者の止むに止まれぬ思いと共鳴したら観客にとって一生モノの映画になることがある。初代の『ゴジラ』はエンターテイメント性と社会性だけでなく、この部分が濃いことでカルトムービーなったのだと私は思う。そこに来て『シン・ゴジラ』はどうなるのだろうか。何れにせよ、失速することなく色々な人の作ったゴジラを見れる時代になればいいなあと思います。