T-Venture Programに参加して (前編)

12月1日AM

渋谷のヒカリエではCCCグループのベンチャープログラム最終審査会を控え、事務局と登壇企業によるリハーサルが行われていました。大きくCCCのロゴの映写されたスクリーンと、100社を超える応募の中から選ばれたファイナリスト8社のロゴの入った垂れ幕。私はにわかには目の前の事実を信じられませんでした。我々キングコングカンパニーのロゴがその中に入っていたことに。

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『ロッキー』は一作目でアポロと戦う前夜、会場を見て自分の横断幕を見て複雑な表情を浮かべていました。これまでの人生では無かった晴れ舞台を前にして、あの複雑の表情が何なのか少し分かった気がします。自分がここに居て良いのだろうかという不安、こんな夢を見ていて良いのだろうかという自嘲、何かこれで全てが終わってしまうのではないかという気持ち、それらが押し寄せ呆然としました。


Bill Conti - Alone In The Ring (Rocky)

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 これまでの一ヶ月は二人にとって激動としか言えない日々でした。ここに全てを記すことはまず不可能で、ただ人生の二者択一を何度も繰り返したとだけ言えます。私はセーフティーネットだと考えていたタコ部屋のような現職と自分を引き剥がし、休学中の志位は自分と研究室を繋ぎ止めていた研究内容を全て消す選択をしました。

開発者の「あなたに人生の一本をおすすめしたい」その気持ちから始まった#AGENT_TRAVISは、いつしかTVPをやり遂げる事が目標となりました。―私も志位も一度はエリートコースを進んでいたはずの自分が、周りの友人たちの様に進めず脱落したという劣等感を強く持っていました。この社会で一度外れた道というものは、簡単に戻ることが出来ない仕組みになっています。だから、このプロジェクトは、二人の人生を逆転をかけた闘いへ変わっていきました。

 

 そして、この数ヶ月を戦っている中で信頼置ける仲間も増えました。

志位の学部時代の友人でスーパーハッカーのK氏、ピンチの時に我々にジョインしてコードを綺麗にリファクタリングしてくれた事で、某社の仕事を期間ギリギリで終えることが出来ました。彼はスーパーハッカーというより、来たら全てを終わらせるスーパーヒーローだ。

そして、TVPでメンターとして付いてくれた大畠崇央氏、まさしくメンター・導師というべき人物で、我々を一流の仕事に触れさせてくれ、それを惜しげもなく注いでくれた事に感謝しかありません。氏の教えが無ければ、間違いなく完全燃焼することは出来ませんでした。

記した二名だけでなく、学生時代の友人やTwitterのフォロワーからも、リプライを通して直接や、#AGENT_TRAVISを告知してくれたりと、企業でも何でもないたった二人が始めた闘いに、これだけの人が手を差し伸べてくれるとは思ってもみませんでした。

 映画を通して誰かの人生を救いたいと始まったプロジェクトが、自分達を証明するための闘いになり、そして応援している人のために全力を尽くしたいという気持ちへと変わったのです。

 

リハーサルでは他7社のプレゼンターも仕上がっているのが分かりました。そんなプレゼンターでさえ、集合してから本番発表まで会場外でPCに向かって必死に練習をしていました。それを見て一瞬不安が過りましたが、志位に「お前は週に3日しか寝ずに資料を作り、別の仕事を持ちながら6日でホームページを仕上げ、Linuxコードを叩きながら登壇までしているのだ。こんな事をしてきたのはファイナリストの中でお前だけだ!!」と奮い立たされ、覚悟が決まりました。


Bill Conti - Gonna Fly Now (Theme From Rocky)

 

そして本番が始まったのです。
我々の目は完全に生きていました。

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(続く)

#AGENT_TRAVISの開発経緯について①

このブログは、映画リコメンドエンジン「#AGENT_TRAVIS」開発経緯と、映画の感想を残すために作ったのですが、このままでは映画の感想だけになってしまう(どころか140文字以上の文章が書けなくなる)ので、開発経緯についても少しずつ書きたいと思います。プログラミング的な部分は相棒の志位++和夫に任せておりますので、こちらは思い出し日記となります。

 

実際にこのプロジェクト開発し始めたのは今年の4月頃だったかなあ?と思います。

初っ端から曖昧なのは、開発がスタートしてからというもの、寝食を惜しんで一心不乱に開発する生活が3ヶ月ほど続いたためです。気付いたらプロトタイプを公開出来るようになり7月になっていました。その頃の私は7時に出社して23時退社、24時に帰宅して3時まで開発をするとんでもない生活でしたが、毎日未知の分野を開拓するのが楽しく、いくら疲れていてもPC前に座ると覚醒するのでした。

 

このプロジェクトはまだまだ発展途上なのですが、最近は少々「待ち」を要する時間が増えてきました。しかし、異常な開発体制だったため開発していないと落ち着かず、物足りないような心細いような不安感が漂うのでした。ここらで一旦、自分たちの開発経緯を書きとめ、心の整理をしてから前進する必要があると考え、今回のエントリーを書くに至ったのです。

 

さて、プロジェクトが動き出してからは4ヶ月程しか経っていませんが、そもそもの発端はもう少し前にあります。

我々の出会いは学生時代に遡り、Magic:the Gathering(カードゲーム)という共有の趣味を持っていたがために、友人の友人の・・・という感じで邂逅を果たしたのでした。

 

私の感じた彼の第一印象です。

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すた丼を食いに行けば大盛りを一瞬で平らげ、周りが半分も食っていない段階でラーメンの食券を買いに行き、神妙な顔で周りの食っているすた丼を見ながらラーメンを待ち、届いたラーメンを一瞬で飲み込む姿はまさに《暴食するゾンビ》でした。

 

志位のファーストインプレッションは「常識外れ」に尽きました。ラガーシャツ常用の体格はもちろん、ヤツの物の考え方が途方もなくぶっ飛んでいるので、自分も周りもそういう奴として認識していたと思い出されます(本質的には今も変わりませんが)。

 

しかし、上述のカードゲームのサークルを学内で作って学校祭にも出展しようと発起し始めたあたりで印象が変わりました。結果的に私と志位は初代メンバーとなったのですが、何かを実行しようとした時、それが地道でも突拍子もなくても、理論に裏付けされて具体的に行動してしまう部分には、友人ながら尊敬し共感を得ました。

 

最終的に日本語の喋れない黒人の先生を説得したりして、オタクが学校祭に出展する事になったのでした(あの先生が正しく理解してくれていたかは今となってはもう分かりません)。

 

実はそれからの関わりは希薄で、私は北海道で就職して心身共にボロボロになるわ「この愛こそ永遠だ!」と思ってたのに失恋するわ、彼も彼でどんどん人に裏切られるわで、良い具合に両者共にドン底に向かっていきました。そんな中でメンがヘラった志位に「映画でも観ろよ」と、私が大学時代に培った表象文化学という全く飯の食えない学問を用いて映画をおすすめしていた時期がありました。

 

そんな訳で彼の並々ならぬ社会への不満と、傷付けられた心、異常な使命感と実行能力を分析して、私自身も非常に影響を受けた『タクシードライバー』を劇薬的に処方してみたのが本プロジェクトの発端の発端となったのです……

 

(続くかはわからない)

 

『シン・ゴジラ(2016)』

最近では映画館で映画を見る機会がぐっと減っていたが(Amazonのせいで)、"庵野秀明が『シン・ゴジラ』を撮りました"ならば話は違う。当初は「もうシン~はやめてくれ!」や「ゴジラで伏線が120分もあるのか」等の思考が溢れてブチ切れそうになったが、総合して「ゴジラだから見に行く」という結論になったので初日に観てきた。

 公開前プロモーションは多岐に渡っていたと思うが、内容をひた隠しにするかにゴジラの横顔のみに固執するので、正直コラボしたところでよく分からん。予告編でも見せ場がイマイチ不明なため、大作映画の割にテレビでもあまりゴジラを推せていなかった様な気がする。

あとはゴジラが謎すぎるのと比例して、空気の読めないエヴァンゲリオンコラボがいっぱいあるので「お前らそんな事してる場合じゃないだろ」と思ったが、たぶん一番つらいのは庵野だ。

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前置きはさておき、これだけ秘密を貯めこんで見えるものは悪魔・モンスター的なゴジラのフォルムのみ。これは相当に尖った作品が出てくるだろう!と期待していたらまるい映画だったので驚いた。悪い意味ではなく巧く収めているという意味なので、観終わった時に「シン」の呪いが杞憂だったと共に、会社の為に体を売り続けているエヴァンゲリオンの不幸を想起した。

 

あらすじが「ゴジラが日本に出てきたので日本人が何とかするぞ!」と簡潔なものだったので、科学っぽい小難しい言葉が矢継ぎ早に飛び交っても問題ない。ゴジラが街を破壊してるかどうかを見れば分かるので、オタクが早口で喋っていると思って大丈夫だ。

今回話の中心となるのは矢口蘭堂という若き役人(役職:内閣官房副長官)であり、とにかく彼が頑張りまくるので、行動型の一個人が各分野のスペシャリストたちをまとめ上げ、勝利を勝ち取る姿はさながらアメリカ映画のようで爽快感がある。

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(失礼ながら長谷川博己氏のキャラの薄さが非常に主人公に向いていた)

 ギャレス・エドワーズ版『ゴジラ(2014)』の主人公が典型的な巻き込まれ型主人公であったのと比較すると、蘭堂は自分で話を前に進めているので「次に何をする?!どうすればいい?!」と、観客に感情移入させて、映画に参加させる効果があった。一方のギャレス版は、主人公が巻き込まれていくのを文字通り観ているだけで、どうしても眠たくなる部分がある。

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(めっちゃ筋肉あるのに"受け"だったアーロン・テイラー=ジョンソンくん

 

繰り返すがこの映画は「観客が矢口蘭堂に感情移入して日本を守る」事に主眼が置かれているのであって 東日本大震災以後の~やらに必死になる必要は特に無い。じゃあそれらしい事を映画で描くなよ!と思う人もいるだろうが、震災後、再度核の恐怖に曝された日本を題材にして"ゴジラ"である。それを無視した構成にするのはアメリカ映画だけで十分だ、ここはゴジラの国だぞ。

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このデリケートな話題を映画でまるく収めたことは間違いなく評価に値する。確かに、ゴジラ上陸による津波は繰り返し見せられたニュース映像を想起させるし、一波が去った後の何事もなかったかのような気味悪い平凡も思い出されて身につまされる思いがあったに違いない。

けれどこの映画は誰が悪いとも言っていない

看板持った連中は"政府"にイチャモン付けるのが好きだろうけど、本作の主人公は政府の人間だ。物語の大半が彼を取り巻く環境を映し出しているので、役人の伝言ゲーム→総理大臣が決定に困る、を見せられて喜ぶ人もいそうだが、彼らなりの闘い見せたのが『シン・ゴジラ』の優れた点だと思っている。大杉漣の演じる総理大臣をとっても、序盤は意思薄弱な指導者として登場するものの、物語が進むにつれてゴジラと対峙することを選んでいく(そのあたりは『ジョーズ』っぽさもあった)。そして主人公の思いは一人一人の思いを継いでいくかのように、物語が進むに連れて熱さを増していくのだ。

 

この映画観ていて「主語の大きい人」というネットスラングが頭を過ぎった。要は特定のものに対する自分の思い込みを、拡大解釈する人の事である(例えば役人の対応が遅れたら今後は役人全てを悪として見る等)。本作について尖ったメッセージ性が感じられなく、私は「まるい」という表現を使用したのだが、一つだけ一貫したメッセージがあった。

自身の持たされた場所で、必死・決死の思いで最善を尽くす人がいる!誰が良いか悪いかはもはやどうでも良い、前に向かって進もうじゃないか!という事で、意地悪な言い方をすると主語をデカくするなというヤツである。デリケートな問題を、きちんと落とし込みつつ、カルト的なフォルムをしたゴジラを好き放題暴れさせ、好き放題撮っていたのにはやられた!と思わされた人も多いはずだ。

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(本当にすごい見た目なので初見はゾンビになったかと思った)

 

基本的にまるい映画なんだけど欠点もある。

チョイ役のキャストが内輪ネタみたいな感じで急激に冷めるのと、出てくるキャラクターがわざとらしい程にアニメチックすぎて『チキチキ!笑ってはいけないゴジラ24時!』かと思った。特に、石原さとみ演じるアメリカ大統領特使は観ていて顔を覆いたくなるくらい恥ずかしいので必見だ。俺一人が恥ずかしい思いしたなんて許せねえ全員『シン・ゴジラ』観ろ。 

 

真面目な話、キャラクター付けで余計な事をしなければ「これが日本の『ゴジラ』だ」と胸を張れる作品だったと思うので非常に残念である。妥当なところにきちんと落とし込んだまるさを含めて、少ししたら忘れてしまうタイトルになりそうで怖い。

初代の『ゴジラ』が尖ったカルトムービーとなったのはゴジラと核の取り合わせだけではない。最終的にゴジラを葬れるのは、元気ハツラツとした長身の青年ではなく、社会に後ろめたさを思う一人の科学者である点だ。この如何にも怪獣好きの暗いヤツが感情移入しやすい―芹沢という科学者が、無敵の怪獣ゴジラを自分の命と引き換えに倒すという根暗のロマンが詰まっていた。

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(本多猪四郎監督の作品には芹沢的な男が多い)

 

他作品からの引用・オマージュを挙げだすとキリがないが、マーチ曲含めて本多猪四郎の『宇宙大戦争』との共通点が面白かった。『宇宙大戦争』のあらすじを簡単にまとめると、宇宙からの侵略者―ナタール人を倒すため、日本人をリーダーに地球人類が一致団結して闘いぬくというストーリーである。現実であれば国連が指揮を執り、日本は従うであろう所を、逆転させている虚構にナショナリズム的な楽しさがあるのだ。本作『シン・ゴジラ』でも同様の現象が起こるため、そこが日本人の観客として"ノれる"ポイントであり、作品への感情移入度を上げてくれたと思う。

一方でナショナリズムという言葉に過剰反応する人たちにとっては気に食わない点かもしれない。まったくアメリカ人は気楽にハリウッド映画を見れてさぞ楽しいだろうなあと思った。

 決して大作でなくても、作者の止むに止まれぬ思いと共鳴したら観客にとって一生モノの映画になることがある。初代の『ゴジラ』はエンターテイメント性と社会性だけでなく、この部分が濃いことでカルトムービーなったのだと私は思う。そこに来て『シン・ゴジラ』はどうなるのだろうか。何れにせよ、失速することなく色々な人の作ったゴジラを見れる時代になればいいなあと思います。